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090415編集
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■ネット書籍をめぐって
先般の、グーグルが絶版本を電子化する件からはじまって電子図書館の問題が関係者のあいだで話題になっているようだ。内田樹の研究室 で内田さんがかいつまんで意見を開陳されている。多忙な人らしく一気書きでアップしてあるので、要所を勝手に改行・段落をつけてみた。文意誤読がなければ良いが・・。まえもって内田さんにお詫び申し上げます。
★★引用開始
(前略)
日本文藝協会からまた「文藝著作権通信」が送られてくる。Googleの話の続きである。「電子図書館の光と影」というタイトルで、ネット上で書籍の閲覧が可能になった場合のプラスとマイナスを論じている。
プラスというのは、これまでそれを所蔵している図書館まで足を運ばなければ閲覧できなかった本でも、稀覯本も、紙の劣化が著しく一般読者には閲読不可能であった本でも、電子データ化されれば誰でも閲覧できるようになることである。アクセシビリティは飛躍的に向上する。それは間違いなく、私たちの知的アクティヴィティをおおきく活性化してくれるはずである。
マイナスというのは要するに「本が売れなくなる」ということに尽くされる。そんなことをすると地方図書館が図書の買い控えをするようになるのではないかとこのパンフレットの書き手は心配している。
「新刊書がただちにデジタル・アーカイブされ(画像として保存されるということです)、その画像をインターネットで送信して、家庭のパソコンで見ることができれば、本を買う必要がまったくなくなることは間違いありません。大変便利な時代になったという気もしますが、そうすると文芸家はどこから収入を得ればいいのかという大きな問題が生じます。紙の本の印税によって生計を立てるという従来の考え方を、根底から変えなければならない時代が、すぐ目の前に迫っているのかも知れません。」(「文藝著作権通信」、11号、NPO日本文藝著作権センター、2009年、3月)
そうだと思う。「従来の考え方を、根底から変えなければならない時代が、すぐ目の前に迫っている」と私も思う。鉄道が電化されれば蒸気機関車が不要になるように、橋がかかれば渡し船が不要になるように、テクノロジーの進歩はその代償として必ず「それまで存在した仕事」を奪う。「紙の本の印税だけによって生計を立てる」という生き方はこのあとかなりむずかしくなるだろう(今でも十分にむずかしいが)。
だが、それは圧倒的な利便性を提供するテクノロジーを導入することの代償として受け容れざるを得ないのではないか。「音楽だけで生計を立てる」こと「芝居で生計を立てること」を望んでいる人は今もたくさんいるが、ほとんどの人はそれを実現できていない。「食えないなら止める」という人は止めて、「食えなくてもやる」という人だけが残ってゲームを続ける。
文芸家もそれと同じだろう。それに、著作権者の相当数は「それで食っている」専門家ではなく、著作権の継承者である。ご自身の本業は他にあって、「紙の本の印税だけで生計を立て」ているわけではない。もし、自分は何も働かず、親族の残した著作権からの収益だけで暮らしている人がいたとして、その既得権がそれほど優先的に配慮されるべきものだと私は思わない。というような私の主張を想定してかもしれないけれど、パンフレットには次のような文言があった。
「大学研究者の中には、著作権そのものへの意識が希薄な人々が多いことも、問題を拡散させる一つの原因になっています。大学教授などの研究者は、大学から給料と研究費を貰っていて、それだけで生活も研究もできます。たまに本を出してもそこから利益を得るのではなく、むしろ多くの人々に読んでもらえればうれしいという発想しかありません。他の研究者が引用したり言及したりしてくれると、それが研究者としての実績にもなるので、自分の著作や論文がネットで検索できるのは大歓迎ということになります。」
これは私のことを書いているのか・・・という気がするのは別に私の被害妄想ではなく、この問題について先日東京新聞が記事を書いたとき、「著作権を守れ」側を代表して三田誠広日本文藝家協会副理事長が、「パブリックドメイン」側を代表して私がコメントを寄せていたからである。私は決して「著作権への意識が希薄」ではないと思う。どちらかというと、そのことに敏感である。だからこそ、著作権の管理を協会に委ねず、自分でしているのである。
ご存じのように、私はネット上で公開した自分のテクストについては「著作権放棄」を宣言している。私の書いたことをそのままご自分の名前で発表していただいて、原稿料なり印税収入なりを得られても結構ですと宣言しているのである(まだ試みた人はおられないが)。それは私にとって書くことの目的が生計を立てるではなく、一人でも多くの人に自分の考えや感じ方を共有してもらうことだからである。もし私の書いていることの中にわずかなりとも世界の成り立ちや人間のあり方についての掬すべき知見が含まれているなら、それについて私が「これは私のものだ」と著作権を言い立て、「勝手に使うな」というのはことの筋目が違っているだろう。
それに私が「大学教授」であるのもあと2年のことである。その後はもう給料も研究費ももらえない。でも、たぶんその後も私は研究を続けるだろうし、著作も書き続けるだろう(たぶん今よりハイペースで)。それは私は中学生のときから一貫して、「一人でも多くの読者に書いたことを読んで欲しい」と思ってきたからである。職業が変わったくらいで、このマインドは変わらない。
問題は大学教授であるか専業作家であるかという「立場の違い」ではなくて、「マインドの違い」だと思う。著作権からの収益が確保されないなら、一切テクストの公開を許さないという人はそうされればよいと思う。それによってその人のテクストへのアクセスが相対的に困難になり、その人の才能や知見が私たちの共有財産となる可能性も損なわれても、そんなことは著作権保護に比べれば副次的なことにすぎないというなら、仕方がない。
だが、何度も書いているように、私たちは全員が「無償のテクストを読む」というところから長い読者人生をスタートする。これに例外はない。誰かがどこかで買ってきて、もののはずみで私の手元に届いた「無償のテクスト」を読むところから始めて、私たちは「有償のテクスト」を蔵書として私有する読者に育ってゆく。書籍を購入して、私有し、書架に並べたいという欲望はリテラシーのある読者にしか生じないし、リテラシーは膨大な量の「無償のテクスト」を読み散らす経験を通じてしか育たない。
この点について有効な反証が提示されない限り、私は「有償のテクスト」が生き残るために「無償のテクスト」へのアクセスが容易になることが必ず不利に働くという考え方に同意できないのである。私たちが無償で読めるテクストを選好するのは、それが「膨大な量の読書」を可能にしてくれるからである。なぜ私たちが「膨大な量の読書」を望むかといえば、それだけが高いリテラシーを涵養する唯一の方法だからである。そして高いリテラシーを涵養することを願うのはそれによって読書から無限の快楽を引き出すことが可能になるからである。
だとすれば、無償で読めるテクストが量的に増大することは、リテラシーの高い読者を生み出すことに資することはあっても、それを妨げることになるはずはない。「テクストがリーダブルであるか否かを判定できる目の肥えた読者」が増えることにどうして著作権者たちは反対するのか? それを説明できる合理的な根拠を私は一つしか思いつかないが、それを言うと角が立つので言わない。
★★引用終了
もっぱら読んでばかりの筆者(わたし)などにとっては両者のどちらのお考えにもうなずくばかりなのだが、あえて感想をいえば、創作者が望むなら、創作物への尊重を強化/継続する意味で、電子化の時期を何年か遅らせる、街の図書館が買い揃える冊数に制限をおく、などの措置はあってもよいのではないかと思う。この場合旬の宣伝時期をのがすことになるかもしれないリスクは著作権者が負うことになる。絶版本を電子化するというグーグルの判断は時期の点については反対はすくないのではないか。
2009年4月 8日 (水) 日記・コラム・つぶやき | 固定リンク
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■飛翔体って、UFOかい
いや、北朝鮮製とわかっているから Unidentified Flying Object じゃなくて Half-identified Flying Object 、HiFO だな。ロケットかミサイルかもわからない代物シロモノに休日返上で取り組んでくれた人たちに感謝と慰労をさしあげたい。
ホリエモン氏のブログ に、「そんなに落ちてくるのが、怖いなら、種子島の射場を北朝鮮に貸してやれ。」と冗談まがいが書いてあった(ここだけ抜くと誤読されかねない表現になるな)。
これが韓国の宇宙開発であったら趣旨に賛成だ。同国に適当な射場があるのかどうか寡聞にして知らない。なんとなく東側はすっぽり日本列島が包んでいるようにおもう。経済発展ではるかに遅れた北が人工衛星などと言える技術を手にいれかかっている現在、韓国の宇宙技術はどうなんだろう。内心おだやかでないだろう。わが国もえらそうなことは言えないのだろうけどね。
2009年4月 6日 (月) 日記・コラム・つぶやき | 固定リンク
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■敬遠をしなかった投手
WBC連覇。まず、選手・監督・関係者の人たちにおめでとうとご苦労さまを申し上げる。
いろいろな番組でも取り上げているとおり、10回表、打者イチローの場面で林投手が敬遠せず真っ向勝負にでたのが運の分かれ目だった。監督がサインの不徹底を後悔していたものの、どうも若い捕手の敬遠OKのサインを投手が完全に実行しなかったようだ。
なぜそんな冒険を、と思っていたが、WIKIPEDIA を読んで考えが変わった。決勝戦まで全試合無失点の好投で同国の決勝進出に大きく貢献していたと。対日本戦2試合もおさえこんでいた。相当な大投手だ。にもかかわらず順風満帆の野球人生ではなかったらしい。ご本人に聴かないとわからないが、あの対決は敬遠なんぞ考えられない言わば「巌流島の決闘」であったのではないかな。
2009年3月25日 (水) 日記・コラム・つぶやき | 固定リンク
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■議員秘書逮捕について憶測する
先週来のこの問題は、どうもワケがわからないと思っていた。地検やら内閣やらかららしいリーク情報が一杯あって、霧の道をゆく気分。が、きのうの小沢氏のおわび会見でさすがの報道の嵐もようやく沈静化の気配。霧が消えるにつれ、なんとなく筆者には幾本かの屋台骨らしきものが見えてきたので、備忘のため記す。
1.政治資金規制法がザル法であること。企業からの個人への直接献金は違法だが、間に政党支部や政治団体をかませれば、献金目的に違法性がないかぎり合法という通念が政治家のあいだに定着しており、検察も見てみぬふりをしていたらしいこと。http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/15735088c0402e66c3de29421016e7ff
2.国民のあいだに政治はカネがかかるとの認識があるため、上記通念は国民の諦念的コンセンサスになっていたこと。
3.ところが検察の中に、国民的合意あるいは諦念をほっておけない、また献金額の多さから強行策やむをえず、という正義派があったのか、ともかくその意向に上層部が同意したこと。(このあたりはつたえられるホリエモン事件のときと同じであろう。)
4.検察方針の突然の変更のような逮捕であったことにくわえ、内閣からの妙なリークまがいがあり、意外や国民のあいだに、政治がらみの捜査なのかと疑念が生じたこと。
5.内閣官房の動きは検察にとって痛手で、国民の不審・不公平感を払拭するためにも民主党以外、自民党に捜査の範囲を広げざるをえなくなったが、パンドラの箱をあける事態は避けたいとみるのが自然なこと。
6.内閣官僚発言の意図は、メディアや検察の反応を読んだうえで、自民党内に突然わいた反転攻勢、早期解散ムードに冷水をあびせるため、と考えられること。
このうち、3、5、6はまったくの憶測でしかないが、しばらくたって見直すと真相がみえるであろう。
2009年3月11日 (水) 日記・コラム・つぶやき | 固定リンク
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■チェンジリング Changeling 取り替え子
クリント・イーストウッドの監督作品は、「許されざる者」と「ミリオンダラー・ベイビー」をTV録画で、「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」を劇場でみてきた。みな評判作だ。
そして今回「チェンジリング」を観た。主演はアンジェリーナ・ジョリー、共演にジェフリー・ドノバンが憎たらしいロス市警捜査課長を、ジョン・マルコヴィッチがアンジェリーナを助ける牧師を演じている。1928年ロスアンジェルスであった実話を映画化したそうだ。並の起承転結ではなく、起、承、転1、転2、結1、結2という構成にみえた。ディテールの面白さでは、星条旗や硫黄島をこえていると感じた。シネマスケープ の評点風にいえば3.7以上ではないか。
2009年2月20日 (金) 日記・コラム・つぶやき | 固定リンク
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■「総理」と「首相」
このごろ新聞でもテレビでも「首相」より「総理」という表現が好まれているようだ。もちろん意味は同じ。でも語感が違うな。
「総理」はいわば内部用語。政界、官庁の人たちがつかう敬意・親近感のまじった用法だ。これに対し、「首相」は客観的呼称。すべてに一歩引いて客観的な立ち位置を占めようとするマスメディアが好んでもちいてきた。
時代はかわり、新聞の見出しに麻生「総理」の大文字がおどり、テレビのキャスターが、総理がきのう何々した、と近い距離感をみせている。報道は大丈夫だろうね。
2009年2月18日 (水) 日記・コラム・つぶやき | 固定リンク
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■WBC を何とよむ
ダブル ビー シー と 読む人がふえている。キャスター、アナウンサーなどにもいる。ブー っといいたいね。それでは BBC になってしまう。
正解は、ダブリュー ビー シー。何十年もむかし、漫才に ”Wけんじ” というのがいて、”ダブルけんじ” といわれていた。あのとき間違いをただすべきであった。
2009年2月17日 (火) 日記・コラム・つぶやき | 固定リンク
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■さよなら、古い「日本野球」
日本野球の特徴は、「小さいボール」と「低いストライク・ゾーン」から派生しているようにみえる。小さいボールは手になじむ、打てばよく飛ぶ。これではピッチャーが気の毒だから、ストライク・ゾーンを低くして調整する。ピッチャーはフォークボールという絶好の球種を多用できるようになる。一方打者にとって、低い球を大きく飛ばすには、バットを長くもち、肩上からホームベースに向かって水車打ちするのが良い打法となる。腰の回転負担は少なくなり、腕力がモノをいう。選手が筋力トレーニングに力をいれるのはこの腕力づくりのためだ。
もし、ボールを少し大きくするとどうなるか。ピッチャーには負担がかかるが、そのかわり打球が飛びにくくなる。低いストライクゾーンではピッチャーがずっと有利になるから、ストライクゾーンを高めに調整する。高めの球を遠くに飛ばすには、腰の回転をきかせた、円盤打ち/テニス打ちが有効になる。腰をきたえるには、柔軟体操と選手にはつらいランニング練習が重要になる。
国際基準のベースボールは後者に近いのではないか。来年はまたWBCがやってくるそうだ。古い日本野球の美学をまもるのか、国際基準にあわせて変身するのか、野球界の人たちはよく考えないとね。星野さんのいう日本野球は「つなぐ野球」のことらしいが、それは国際基準の野球に近いように感じている。
2008年8月25日 (月) 日記・コラム・つぶやき | 固定リンク
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■最後くらいは日本野球を
韓国チームとの試合も負けた。ガタイのしっかりした相手選手にくらべ日本選手の体型がスラリとしているのが印象的だった。
わが選手 長いバットで シャクリ打ち
華奢な体に それは不利だよ
きょうの対アメリカ戦は、短くもったバットをテニス打ちすると良いんだがな。
2008年8月23日 (土) 日記・コラム・つぶやき | 固定リンク
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■バトン・タッチ
ソフト・ボールが金メダル。あの頼もしいピッチャーをはじめ選手の健闘をたたえたい。マス・メディアが大騒ぎしているのがほほえましい。野球がおもうにまかせないものだから余計にそうなる。野球の今日の相手は韓国。予選で日本敗退のリベンジということで中継はもりあがることだろう。
こうした中、昨夜の400mリレーでバトンタッチの失敗が頻発した場面をみた。アメリカなどは男子も女子も失格だった。全力で疾走中の受け渡しだから練習を十分していないとこうなる、とは解説の声だ。おもいもかけず日本男子チームは3番目の記録で決勝進出とか。これも楽しみになった。
でも別のバトンタッチではわれわれも失敗しつつあるのではないかとの想いが去来する。この国の経済のことだ。いや、1980年代後半のバブルを境に経済ばかりか、ものの見方・考え方、行動のすべてにわたって人々の心の中身が変質したように感じる。荒波にもまれて15年。自信や矜持をうしなった人たちも多かった。苦境にあえぐ大人たちをみてあとに続く世代がどう成長してきたかが気にかかる。
結局若い人たちには我々旧世代とは別のあたらしいバトンを用意してもらえばよいのではないかと思う。これを断絶と悲しむ必要はない。思い切ってすべてを新世代に託す決断だ。まだまだ働ける、若い者には負けない、生涯現役だなどという未練があたらしい走者の邪魔になっているのではないか。もちろん出来る人から順にの話だが、われわれは威風堂々競技場の観客席にまわろう。
2008年8月22日 (金) 日記・コラム・つぶやき | 固定リンク
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■夕立あとの涼しさの中で書く
今年の夏は快晴の猛暑というよりは曇天の熱暑だが、午後になると雷鳴・雷雨のやってくる日が多いので助かる。きのうは終戦記念日、例年であれば録りだめた戦争関係のドキュメントものを何かひとつみるのが習慣であるが、オリンピックのおかげで時間がとれない。
と、それを補充するかのように、東条首相の日記やら麻薬王里見甫(はじめ)関係の書類がでてきたそうだ。佐野眞一
「阿片王満州の夜と霧」で日本陸軍、関東軍の秘密工作資金の資金源はアヘンであったとの印象を得ていたが、やはり証拠がでてきた。その一部は東京の要路にも配られていたと勝手に読んだが、裏はとれるのであろうか。いま読んでいる推理小説「犯人に告ぐ」もおもしろいが、あの時代の奇々怪々ぶりを解き明かすのもおもしろい。
話かわってオリンピックのこと。似非(えせ)柔道JUDOでの日本柔道陣の苦戦をどうすればよいのかね。孤高をたもって柔道の美をまもるべきか、欧州のレスリングまがいのJUDOに対応するべきか。これが実業の世界であれば子会社方式でJUDOに対処するところだがな。
でも総じて日本代表団はよくやってくれている。手に汗にぎって応援しているよ。あすは女子マラソンだ。
2008年8月16日 (土) 日記・コラム・つぶやき | 固定リンク
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■よく制御された観戦態度
またまた北京オリンピックを材料に一文を。
北島選手の金メダル二連覇の報におもわず涙ぐんで喜ぶ中年女性の顔がテレビにでていた。谷選手の銅メダルは本来おおいに称賛されるべきなのになぜかモヤモヤとした気分が横溢していただけに、内芝、北島とつづく金獲得に国中がわいた図であった。そのほか銅メダルを手にした選手たちも着々とふえていて、ようやくわれわれも安心して郷土愛の心情にひたれることとなった。
他面中国の人たちの心情態度が気になっている。画面でみるかぎり、観客の応援態度は意外なほど中立を保っているようだ。数年まえのサッカーの試合における日本選手に対するブーイングの嵐が嘘のようだ。多分テレビに映る範囲の中国人たちは選手ともどもオリンピック成功のための配役を演じているのであろう。当局の指導・要請にしたがう面もあろうが、本心それを演技しているのではなかろうか。世界から尊敬される大国の民はこうあらねばならぬとの気持ちが感じられて、何かほほえましいような、すこし気の毒な印象だ。もちろん、会場外のテレビ観戦の人たちの応援ぶりはまったく別であろう。それでよいと思う。
このところ胡錦濤政権の対日・対米の軟化ぶりには目をみはるものがある。当分の間世界の工場として成長する道をえらんだ以上、愛憎をこえて日本やアメリカと良好な関係を築かなくてはならないとの判断があるのであろう。わが国としてもアメリカを中心とする経済の仕組みのなかに組み込まれ、はからずも同国の緩慢な地盤沈下を食い止める役割を演じ、それを通じて自国の繁栄を継続するしか当面の道が見つけられない以上、新たな友好国として中国が馳せ参じてくれるのをこばむ理由は何もないはずだ。
中国内を統治しきっているのにはまだ遠い胡錦濤政権のようだから、これを揺さぶるかのようにみえる軍部勢力などのかき回しの動きなどにも目を配って、両国大人対大人の外交をやって行く必要があるな、とあらためて思ったしだいだ。オリンピックの効用はここにもある。
2008年8月12日 (火) 経済・政治・国際 | 固定リンク
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■オリンピックと Chinese Letter
八日の北京オリンピックの開会式典のショーは長かったが結構おもしろかった。なかに、箱をつかったマス・ゲームで漢字の「和」を浮かび上がらせる場面が何度かあった。チベットやウイグルでの暴動さわぎがあるのに「和」かねえ、とか、民族問題が深刻だからこそ「和」なんだ、とか見方はいろいろだろう。筆者は、あの漢字を「平和の和」、「なごむ」と理解する外国人がどれだけいるのかな、と妙な方向に考えが行った。
俗に漢字文化圏という表現がある。中国本土はもちろん、韓国・北朝鮮から、日本、台湾、越南(ベトナム)あたりまでを呼ぶと思うが、今学校で漢字を教えているのは、中国、台湾、日本ぐらいではないのか。マスターすればこれほど便利なものはなく、でもマスターするのには、ほかの事を随分犠牲にしなくちゃならない漢字という存在。この愛憎なかばする漢字のことを中国文学者の高島俊男さんが「漢字と日本人」にみごとに描いていた。別にナショナリズムにひいきするわけではないが、漢字の導入が「やまと言葉」の発達を邪魔してしまった側面は大きいであろう。いまや漢字・漢語の助けなしに、会話もなりたたないのだから。
ところが数年まえ、タレントのアグネス・チャンが、漢字とカタカナをつかいこなす日本人は大変有利な位置にいると言ったのをみたことがある。アメリカと中国という両大国の言葉をたとえ書き言葉だけにせよ、かるがると自分の言語に翻訳できるのだと。暗に英語などをそのままカタカナ語に移しかえるのが流行する日本語状況を肯定的に踏まえての発言であったようだ。また、コンピュータリゼーションの始まったころ、民族学の重鎮梅棹忠夫さんなどが、これからの時代、漢字使用は大変に不利になると警告を発したものだが、最近はマルチバイト文字の扱い方について統一化がすすんだそうなので、懸念材料ではなくなりつつあるのだろうか。
ともかくコンピュータでもネットでも、日本語の表記コードはUTF-8へとなびいている。SHIFT-JIS、EUC-JPなどがいつまで使えるのかなと思っているが、素人の即断はこのへんでやめることにしよう。
2008年8月10日 (日) 日記・コラム・つぶやき | 固定リンク
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■堀江裁判
堀江裁判の二審は控訴棄却、二年半の実刑判決がでて、弁護団は直ちに上告したそうだ。この裁判は最初からわかりにくかった。いきなり東京地検特捜部が全面に出ての捜査であることに驚かされ、その割には起訴事実は証券取引法の違反事件としては小額の粉飾決算に収まってしまい、それなのに類似事件に比し随分おもい実刑判決となっている。一審段階では弁護団は国策捜査の非難を繰り広げたものだが、こうした被告人側の「ふてぶてしい」態度が自由心証主義の裁判の過程で重い判決につながったとの見方には一理がある。
では大衆庶民の側がこれをどうみているかというと、こんなものじゃないかと肯定的な人が半分、重すぎるとする同情派とよく分からないとする中間派あわせて半分といったところではないのか。この反応は被告人にとって想定外のものであったろう。個々の起訴事実をみると真っ黒の有罪証明には届かなかったような印象だが、それにもかかわらず大衆が有罪を是とする感想をいだくにいたったもの、それはコモン・ローの感覚ではないかな。成文化されたものだけが法ではないという英米法では当たり前の感覚をこの国の人たちが持ち始めたということ。もちろん司法当局はコモンローをもちだすまでもなく、大陸法の立場から有罪の証明はあれで十分、というであろうがね。
似たようなことが60年まえにもあった。ご存じ極東軍事裁判、別名東京裁判だ。十名以上のA級戦犯が成文法もなしに、人道に対する罪や平和に対する罪で裁かれたと記憶する。ニュルンベルク裁判もふくめて当時の軍事法廷が戦勝国による裁判にすぎなかったことは今になってみると明らかであるが、では現在人々があの裁判をどう見るかというと、あんなものじゃないかというのがやはり6〜7割以上になるだろう。それも、戦勝国・占領軍という強いものには巻かれるしかなかったという消極的な意見というよりは、コモン・ローの立場から当然の裁判とみなす声が大きいように思う。
堀江裁判をめぐってネット上で見られる落ち着いた反応に、ふと以上のようなことを思った次第。でも、成文法中心のわが国の法制度にとって想定外の事態がはじまったとの感想をもつのは筆者だけか。
2008年7月26日 (土) 日記・コラム・つぶやき | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
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